FAKY surrender

https://youtu.be/k9rEWw5m3YA

 

FAKYの2017年第1弾となる新曲「Surrender」のミュージックビデオが公開されました。

以下Barksの記事から、、、

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◆ミュージックビデオ

新作「Surrender」は、カラフルでポップなイメージを前面に押し出した前作「Candy」とは打って変わり、タフでストイックなトラックにFAKYのパワフルなパフォーマンスが映える骨太でソリッドなイメージのダンスナンバー。

ミュージックビデオはストリートテイストの衣装に身を包み、シリアスかつダークな空間いっぱいに広がるメンバーのイメージショットがクールな映像に仕上がった。他のガールズグループとは一線を画す、という彼女達の決意も感じられる作品だ。

なお、この「Surrender」は3月1日(水)よりiTunesをはじめとする各種音楽配信サイト及びサブスクリプションサービスで楽曲配信がスタートする。

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無国籍な感じもあるグループです。リリイベは見たことがあるんですが、確かまだソロライブはやってないかと……

東京女子流 PREDAWN

https://youtu.be/fl_bCi5DdNw

 

東京女子流の新譜 PREDAWN が3/1にリリースされる。これはイメージビデオ。

 東京女子流は、2010年1月avexよりデビュー、アイドルグループとしては古株。

avexSweets(瀧本美織が所属していた)解散後数年振りに投入したガールズ ダンス&ヴォーカル グループとして、二度武道館のステージを踏んでいる。

当時はももクロが持っていた最年少武道館記録を塗り替えたことでも話題になった。

結成して5年の頃に、脱アイドル宣言やメンバーの引退等あり、勢いが大きく減速。低空飛行のまま現在に至っている。

 最近の楽曲は、EDMや最新のMIXトレンドを取り入れたダンスTune。今回のPREDAWNもその流れ。

メンバーの1人、庄司芽生が歌詞制作に初参加。少しメルヘンが入っているのはその為か、、

 メンバーはすっかり大人の女性になり、(2/23/2017現在、18歳1人、19歳2人、20歳1人)美人度がかなり増して来ている。このイメージビデオを観ても大人感が出ている。

 スマッシュヒットが出難いジャンルの楽曲をパフォーマンスしているので、地上波への出演チャンスが無く、彼女達の良さが伝わらないのがとても残念です。

 

 

predawn / Don't give it up(DVD付)

predawn / Don't give it up(DVD付)

 

 

医師は「神」なのか

さいたま市にある某医療センターの若い内科医の弁。

医師の言うことを守ってくれていれば、こちらも協力して治療に当たるが、守ってくれていなければ、治る意思が無いということなので治療は出来ない。

 

その時は、そりゃーそーだよな…って思ったが、その考えや発言は世俗界では通じるかもしれないが、医療の世界で医師が発言してもよいものだろうか、、

 

ナイチンゲールのように敵味方の分け隔てなく、眼前の患者を助けるのではなく、医師の言うことをきく患者にのみ手を差し伸べる的な発言。

その発言主と友人とのプライベートな会話の中ならいざ知らず、患者に対して話すという、オフィシャルな関係での発言。

その神経は私には理解出来ななっかった。

 

聖人たれ!と言うつもりは毛頭無い。そんな事は期待もしていない。

しかし、医師という職業を選び、実際に医療の現場で他人の命と向き合うブロである以上、その発言は無いんじゃないの…とは言いたい。

 

積み上げられて来た症例パターンと、検査データから病気を特定し、その病気に対しマニュアル的に治療パターンが決定し、そのマニュアル通りに進めるという現代の医療システムは合理的ではあが、医師もまた人、、という側面が医師の要請過程から抜け落ちているように思える。

 

この病院では以前にも別の内科医からこんな事を言われた。

あなたは肝硬変で他人より寿命が短いのだから、、、

ホホーあなた(医師)は人の寿命を司るの 神 なのか。

確かに統計的にはそうであろう。それを否定するつもりもない。

日本人の平均寿命より短かくしか生きられないかどうかなんて、本当に 神のみぞ知る の領域。

加えて、患者本人が寿命の事を尋ねてもいないし、寿命云々の話をしなければならないような問答でもなかったので、びっくりした。

この医師も患者を自分と同じ 人 だと思ってないとしか思えない。

この医師は、辞めて開業している。

 

これら二人の医師の共通点は、同じ病院に勤めている(いた)と、女医であるという点。

偶然だとはおもうが、、、

 

医師は患者に対して100%強者の立場にいるからこそ、、

医師という世間から尊敬される職業に従事しているからこそ、、

医師には、マニュアルに精通するだけでなく、同じ人間という基本的な事を忘れて欲しくないと望みたいのだが。

望んではいけないのだろうか。

それと、そんな医師が日本にこの2名だけであって欲しい。

パーミロール

 

 

よくAmazonを使います。必ずしも最安値ではありませんが商品掲載点数の多さが最大の魅了ですね。

私は色々と病気を抱えており、薬や病院で使うようなちょっと特殊な傷口処置用品も時々買います。

ここでおすすめ品をひとつ。

傷口を防水したりする時に使う粘着フィルムです。

名前は、〔日東メディカル〕優肌パーミロール

横幅サイズは色々あります。縦は適当に切って使います。

f:id:yotsukado-oldboy:20170219120239j:image

他のメーカーからも出ていますがポイントは「柔肌」何度も貼ってはまた貼るという人にはこれが経験上はベストでした。

傷口は、先ず洗浄(消毒ではない)、次に薬というのが今のトレンドです。塗った薬が外に漏れないように、同時に外からの汚れが傷口に直接触れないようにこれでピタッとシールします。パーミロール自体には薬の成分はありませんのでお間違えないように。

対象となる方は多くなさそうですね。笑

何して遊んだ? part 4

さて、一浪の末東京の有名私立大学に入学できました。芦田まなちゃんがそこの中学に進学するのではと言われています。

大学時代は遊びましたね。勉強は一切していないと言っても良いくらいです。(自慢する所ではない)

第1に麻雀。音楽サークルでパーカッションをやりながら、朝から雀荘通い。酒を飲んでは雀荘通い。

アパートに帰れず徹マンなんて事も度々でした。中村正俊がやってたと言う雀荘が行きつけでした。

 

次にディスコや合コン。私が大学に入った1980年代中頃は、ディスコブームでもありました。新宿のブラックシープ、六本木にはファーマーズマーケット等いっぱいあり、週末は合コン花盛りでした。

ダンパ(ダンスパーティー)で知り合い合コンをセッティング。ダンパは大学の大きなサークルがホテル(帝国ホテルなんてのもありました)を借りて開催していましたね。同じく地方から上京してきた友人や、サークルの仲間と何度も行きましたが、残念ながら結ばれるような事はありませんでした。泣


引き続きボーリングもやりました。サークルの先輩の車のトランクにボールを入れさせてもらい、夜中に青山ボーリング場(今はありません)とか、田町ハイレーンとかに出没していました。

 

そのサークルの先輩には本当にお世話になりました。その方も三重県出身なのですが、高校から上京されていたので東京の事が詳しく、音楽、ファッション、流行りとか教えてもらいました。JJの創刊号を持っていました。今やプレミアムかも、、

車で、馬事公苑ロイヤルホスト。当時は珍しい24時間営業の店でした。ユーミンが作詞のネタを客の会話から拾っていたと言われているレストランです。山手のドルフィン、横浜山手にあるレストランでユーミンの歌詞に出てきます。原宿(今とは違い落ち着いた雰囲気がありました)や公園通りの洒落たカフェにもよく行きました。そんな時はいわゆる○○ボーイに本人はなりきっていましたね。

 

このように遊び惚けた結果、留年。5年かかってやっと卒業できた次第です。 

何のアピールポイントも無い割には海外勤務がしたいという希望だけはありました。今度は日本から出たかったんです。結果、時期も悪かったのですが、就職にはちょっと苦労しました。

 

何して遊んだ? part 3

金山団地で15の春(高校)を迎えました。家からも近い(徒歩通学でした)県立高校へ進学。ここは比較的新しい高校で同じ学区(当時は第7学区)に福岡県随一の修猷館高校がありました。

ここでも部活をやっていましたし、当時は修猷館に追いつけとばかりに朝や放課後に補修授業が組まれていましたので、いわゆる青春…的な遊びはあまり無かったと思います。

そんな中、アイドルに目覚めたのはこの頃です。当時は天地真理、中3トリオ、ピンクレディ、浅田美代子麻丘めぐみなどなど沢山のアイドルがテレビの音楽番組に出演していました。これを見て、振りを覚えて学校で仲間に披露して盛り上がっていました。当時は2〜3回見れば歌詞と振りがほぼ覚えられたのですが、最近では忘れる方が多くて…

ボーリングも続けていました。ボーリング場主催の大会にエントリーしたりもしていました。成績は飛び賞狙いですが。

最高の景品は梅酒…未成年なんですが。

中学時代に友達のお母さんから教えてもらった麻雀を友人に教えて、麻雀もしていましたね。ジュースをかけたくらいですが。高3になってもやっていました。(現役合格なんかする訳ないですな)

パチンコにはじめて行ったのもこの頃です。パチンコは私の性格に合わなかったのでのめり込むことはありませんでした。じーっと同じ動作を続けるのがダメでした。

母親と期末の数学で100点取ったら1万円という賭けをして、まんまと1万円せしめた事もあります。2回目は拒否られましたが、、笑

高校時代も色恋沙汰も無く、高3の受験シーズンを迎えました。

勉強なんかしてないので、現役合格は夢の夢、、予定通り浪人生活に突入です。

これまで振り返ると、悪い遊びもせずに、田舎の子供が田舎の少年に成長しています。

浪人時代は、今は無き水城学園という予備校に通いました。当時、東京の予備校から有名講師を博多に招いて授業をしていたのはこの学校くらいしかありませんでした。

やっぱり有名講師の授業は一味違い、大学受験勉強とはどう進めればいいのかが納得でき、授業が楽しかった記憶があります。加えて講師が実際に教えている大学(当時は大学の先生がアルバイト的に予備校でも教えているという形態がほとんどだったと思います。)の話し等を聴くうちに、福岡を出たいという気持ちを強く持つようになりました。

東京で神田川のような学生生活をおくるぞ! 

このスローガンの下毎日真面目に予備校に通いました。遊びらしい遊びをしなかった一年でした。

何して遊んだ? part 2

昭和40年代、中学に入ると部活があるし、勉強も忙しくなるのであんまり遊べませんでしたね。

ラジオを聴き始めたのはこの頃です。FM放送の音楽番組をよく聴いていました。初めてのリクエスト曲は、森山良子さんの "歌ってよ夕陽の歌を" でした。

洋楽も聴きました。本格的に音楽と出会ったと言えるかもしれません。

ボーリングの第一次ブームの真っ最中でしたね。2時間待ちはざら。お年玉でマイボール、マイシューズを買いました。

中山律子、須田加代子、並木恵美子、男子では矢島、山中、大橋などのプロがテレビのゴールデンを賑わしていました。

マイボールを持っている割には腕は上達せず、アベレージも150点台でした。でもボーリングはその後大学生まで続けていました。

中学の3年間はあっと言う間に過ぎて行った気がします。その頃住んでいた団地(小学生の時とは違う団地、金山団地)には、真ん中辺りに売店がありそこに同じ団地に住んでいた仲間がそれぞれの部活終わりに集まって来て、喋ったり、ジュース飲んだり、売店の兄ちゃんと一緒に遊んだりしてましたね。

金山団地、今や地下鉄が走っていますが、当時は交通手段といえばバスのみ。都心の天神まで40分くらい。越して来たばかりの頃は、ここは辺境か…本当に福岡市か…と思いました。周りは田んぼ、梅雨の頃にはカエルの鳴き声が煩すぎて眠れないなんて事もありました。

ちなみに部活は軟式テニスでしたがハッキリ言って弱かったです。笑

そんな色恋沙汰も無い、平凡な田舎の中学時代でした。